12月14日前後のあれこれ(2002年)

林泉寺
2002年12月14日の山形県米沢市 林泉寺
中央に見える白い看板が、新貝弥七郎さまの墓の案内板


12月14日。
吉良邸が赤穂浪士の襲撃にあった日です。
今年は山形県米沢市にある、赤穂事件殉難追悼碑・新貝弥七郎の墓・山吉新八郎の墓に花を供えてまいりました。

新貝氏、山吉氏は、共に上杉家から吉良家に入り、12月14日にも戦っています。
新貝氏は玄関で、死亡。腹の中から折れた槍の穂先が発見されたそうですから、素晴らしい奮戦ぶりだったろうと思われます。
山吉氏の活躍は記録にもはっきりと記されています。数人もの浪士たちを相手に斬りむすび、脇差などはささらのようになり、重傷を負いつつも生き残っています。後に諏訪に流された義周公に随い、身の回りの世話をし、義周公亡き後は再び上杉家に召かかえられ、かなり長生きされたようです。
余談ですが、「吉良さま御味方」(風柳祐生子著 三一書房1993年刊)に描かれたこの二人が、とんでもなくカッコいいのです! 武士とはかくあるべしという感じで、”暗君にも無条件に従う忠義”というものに懐疑的な私には非常に納得のいく内容でした。

前日13日に思い立ち、14日、近所の行きつけの花屋で小さな花束を三つ作ってもらい米沢へ。
米沢市は12月半ばだというのに、もう雪の中でした。上の写真を見ていただければどのような状態かお分かりいただけるかと。山吉氏は照陽寺、新貝氏は林泉寺にお墓があるのですが、どちらもお寺の方に場所を訊かなければ見つけられませんでした。歩き回って探したら、遭難しかねない感じです。(そしてどちらの寺でも、教えてくれた奥様は私のブーツを眺めて「長靴貸しましょうか?」と言ってくださいました。お気持ちに感謝!)

山吉氏の墓は思ったより新しい感じでした。改修(?)されたのかしらと思いましたが、墓石の裏に回りこむ事など不可能な状態で、確認をあきらめました。後で考えたら、お寺の奥様に伺えばよかったのですね。
上杉家の女性たちや直江兼続の墓もある林泉寺の方は「新貝弥七郎の墓」という案内板が立っていましたが、その付近のどの墓石がそれなのかなかなか判らず、雪を掻き分け(素手で・・・)ながら見つけた小さな苔むした墓石。かすかに新貝という文字を見つけることが出来ました。
雪を払った二つのお墓に花を供えて、「ご苦労様でした」と頭を下げてまいりました。

それにしても、この日が命日ではない山吉さまはともかく、新貝さまのお墓にも、まったく足跡のついていない雪を掻き分けながら行かねばならない現状が、情けないです。
以前覗きに行った泉岳寺(この名前だけちゃんと変換してくれるのも情けない・・・)の大盛況ぶりを思い出すと、なにやら悲しくなります。きっと今年は300年記念とかで大騒ぎなんでしょうね。


12月15日の新聞記事
やっぱり。「義士行列」ですか。そうですか。
「義士の末裔として思うところがある」のだそうですが、思うところってのは卑怯な方法で他家に押し入って人々を惨殺した反省・・・じゃないですよね?
私がこの場に居合わせていたら、大石に扮した寺尾さんに殴りかかっていたかもね。ファンだったんですけど。

小泉さんも地元の講演でご自分を浪士になぞらえておられたらしいですね。
この記事を書いた記者も「忠臣蔵」を史実だとなんの疑いもなく思っている様ですね。
総理大臣からしてこの認識なんですから、しょうがないとあきらめるべきなのか・・・。












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