吉良義央公像
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)年表
寛永18年9月2日 | 鍛冶橋邸にて生。 |
万治元年 | 18歳。出羽米沢の上杉家から富子(19歳)を娶る。 |
万治2年 | 19歳。この年から出仕。 |
寛文3年 | 23歳。長子三之助生。 |
寛文4年 | 24歳。富子の兄である上杉綱勝急死のため、三之助が上杉家の養子となる。 |
延宝6年 | 38歳。第五子三郎生。 |
貞亨2年 | 45歳。三郎死す。 |
貞亨3年9月 | 46歳。吉良領にて、矢作川下流地帯の灌漑の便が悪くまたしばしば氾濫し村民の患が耐えなかった為、吉良公は堤防を築く。この堤は吉良公の恩を謝して「黄金堤」と呼ばれる。このとき一夜にして作られたという伝説もある。 |
元禄元年 | 48歳。富子の眼病回復をきっかけに干拓をし、新田を開発する。夫人の名をとり富好新田と名づける。 |
元禄3年 | 50歳。上杉家の養子となった三之助(綱憲)の次男春千代(5歳)を養子として迎える。後に左兵衛義周。 |
元禄14年3月14日 | 61歳。江戸城内にて浅野長矩に斬りつけられ負傷。 |
同年3月26日 | 御役御免となり、本所へ替地を命ぜられる。 |
同年12月6日 | 義周(17歳)家督を相続。本所へ移住。 |
元禄15年12月14日 | 62歳。深夜、松坂町の屋敷にて赤穂浪士らに殺害される。19日、万昌院に葬られる。 |
刃傷の理由 |
日本人のほとんどが信じているらしい、かの有名な俗説には何の根拠もありません。証拠もない上、理屈も通らない説がこれほど浸透しているのは・・・やっぱり「忠臣蔵」のせいなのでしょうね。 刃傷の理由は浅野本人も語らず、遺志を受け継いだはずの大石も語らず。結局未だに不明なのです。 浅野の発作によるもので、他に理由などなかった というのが一番有力な説なのでは? |
吉良は強欲な悪人であったのか? |
私は現実にお会いしたわけではないので(当たり前)断言する事はできませんが、少なくともその領地では、黄金堤の建設や富好新田の開拓など善政をしき、名君として慕われていました。同時に愛妻家でもあったようで、富好新田の「富」は奥方の名前、富子からとられています。余談ですが、赤穂においては、浅野家断絶と聞いて領民は餅をついて祝ったという話です(伴蒿蹊「閑田次筆」) ただ、家柄がよくエリートで頭も切れるうえ、美男だったらしいですので、そういう意味では妬まれる要素はあったかもしれませんが。 |
深夜の虐殺劇 |
正確には14日ではなく15日にはいった寅の刻(午前4時)ごろ、完全武装の浪士たちが吉良邸内に押し入り、熟睡していた吉良家の者たちを虐殺。浪士方には重傷者はおらず、吉良方では十七名の死者。非戦闘員である十五歳と十七歳の茶坊主までもが殺されています。 この事件を「義挙」と呼ぶ人々の神経が、私には理解できません。(杉浦日向子氏が1994年の「季刊歴史ピープル」の座談会で仰っている「社長の殺人未遂を社員が遂行」に全面的に賛成!) |
その後の吉良家 |
一方的な被害者であるはずの吉良家は、何故か「仕形不届」という理由で、領地を没収され、跡継ぎの義周(十七歳)は罪人扱いで信州高島の諏訪安芸守預けとなり、宝永三年一月二十日に病死。 四十七士ブームのお陰で吉良上野介は悪人に仕立て上げられ、現在に至ります。 |